「さとみちゃんは、痛い目見ないと分からない」
・・・数年前から、良く言われてきた言葉。
何かをチャレンジするときや、リスクのあることを
やろうとしているとき、必ずこうやって非難する人がいた。
すごく嫌いな言葉だ。
だって、何か、痛い目見ることを願っているように聞こえてしまうから。
じゃあ実際、つまづいたときに、「ほ~ら、だから言ったでしょ」と
ドヤ顔になっているような、相手の様子が浮かんでしまうから。
でもね、残念ながら私、
「痛い目を見ても、分からない」子ですから!!笑
(↑ 痛い目を見るとか以前に、私が”痛い子”なのでは・・?苦笑)
痛い目を見ても「痛い」と感じる痛覚が、壊れているのかもしれない。
まぁ、確かに、これまで色々と波乱万丈はあったけれど、
転んだら、また起き上がるだけのこと。
失敗したら、逆に、その経験を絶対生かしてやる!って頑張れるし、
尖った話のネタが増えて、ラッキーとも思える。
自分の不幸話を、笑いながら話すから、逆に気持ち悪がられることもある。
痛い目を見るのを、恐れたりなんかしない。
だって、せっかく、こんな素晴らしい世界に生まれてきて、
沢山のチャレンジをするチャンスを、無数に与えられている。
赤ちゃんだって、コケるのが怖くて、怪我するリスクを回避して
いつまでもハイハイしかしない、なんておかしいでしょ。
赤ちゃんのような感覚を、常に大事にしていこうと思っている。
痛い目をみるのも、一つの喜びなのかもしれない。
私は、ある意味、失敗したいと思っているのかもしれない。
植物を含む、生物にとっての喜びは「成長」だと聞いたことがある。
成長を促進させるためには、知識と経験が大事な肥料となる。
人はそれぞれの、価値観のものさしで「正しさ」を測り、
親切心や、ときにはエゴから、その正しさを振りかざそうとする。
だけど、人が決めた「正しさ」よりも、大事にすべきは自分の心の「納得感」。
失敗しても、自分が選んだ道だという、納得感と責任感があるならば、
確実に、そっちのほうが 成長できると思っています。
もちろん、その選択には、「周りを幸せに出来るか?」という、愛ベースでの観点も忘れずに。
納得したからって、人をわざと困らせたり、傷つけたり、不幸にするのはダメだよ。
自分の想いや在り方は、結局、全部自分に返ってきてしまうから。
いつも、周りをヒヤヒヤさせて、すみません(;´・ω・)
いつも、なんて分からずやなんだ!って、イライラさせて、すみません。
だって、赤ちゃんなんだもん。
許してね。